大浦天主堂は二つの歴史的な出来事と関わりがあります。

一つは、1597年の日本二十六聖人の殉教です。大浦天主堂は、正式には、「日本二十六聖殉教者聖堂」と言い、1862年に二十六人の殉教者たちが聖人に列せられたのを受け、捧げられた教会です。そのため、大浦天主堂は殉教の地である西坂に向けて建てられています。もう一つは、1865年の「信徒発見」です。大浦天主堂が1864年に建てられ、翌年2月から公開が始まったその約一ヶ月後の3月17日に、浦上の潜伏キリシタン達が信仰の告白をして名のりを挙げました。プティジャン神父は大喜びでフランス、ローマに報告しています。

建造から国宝指定まで

1. 設計から建造、祝別まで

パリ外国宣教会のフューレ神父は、1863年1月22日に来崎し、2月14日大浦南山手の居留地に隣接する南山手乙1番(現在地)を入手しました。
次いで、8月初旬に来崎した同宣教会プティジャン神父に新築する天主堂の設計図を示し、「二十六聖殉教者聖堂」と命名する考えを伝えました。その後、翌年1月熊本県天草出身の請負人、小山秀之進と契約をなして、天主堂建設に着手しました。建設工事は、バリ外国人宣教会日本総責任者ジラール神父の指示を仰ぎながらプティジャン神父の指導で行われました。煉瓦造の教会ですが表面は漆喰で白く塗られています。

1864年12月29日に工事は俊工し、翌年1865年2月19日、ジラール神父を始め、フランス領事、長崎港内に停泊中のフランス、ロシア、オランダ、イギリス各国の軍艦艦長臨席のもとに荘厳に献堂式が行われ、落成を祝い各国の軍艦が祝砲を打ち盛大に挙行されました。天主堂は、守護の聖人たちの殉教地である西坂の聖地に向けて建てられています。建設費は、現在に換算すると4億円前後の工事費であったとみられます。

2. 改築及び修復

禁教令の高札が撤去されると信者の数が増加し教会が手狭になったため、増改築が進められました。創建時の御堂を包み込むように行われ、正面を約6m前に出し、左右を約2m広げ、後方を約3.6m伸ばし、面積は当初の2倍の大きさに拡張、内外ともにゴシック様式に統一されました。

1945年8月9日の原爆投下では、屋根や正面大門扉、ステンドグラスその他の部分に甚大な被害を受けました。国庫の補助を受け修復工事が行われ、1952年6月30日、5ヶ年の歳月を費やして工事は完了しました。

3. 国宝の指定

大浦天主堂は、我国の洋風建築輸入の初頭を飾る代表的な建築物です。
1933(昭和8年)年1月23日、文部省により国宝に指定されました。原爆による損傷の修復が完了して後、1953年3月31日、文化財保護委員会によって、国宝に再指定されています。

日本二十六聖人

日本二十六聖人とは、豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって捕縛され、1597年2月5日長崎西坂の丘で処刑された26人が、1862年6月8日、ピオ9世教皇により聖人の尊称を献上されて、全世界でカトリック全教会信徒の尊崇を受けることになった日本人20名、外国人6名の聖殉教者達のことです。以下その次第を説明します。

1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に宣教して以来、約50年がたった頃、豊臣秀吉によってキリシタン弾圧の命令が下されました。その命令に従った石田三成により、1596年のクリスマス頃に、大阪・京都周辺でキリシタンが捕縛されました。捕らえられたのは、京都でフランシスコ会宣教師ペドロ・バウチスタら6名、大阪でイエズス会修道士パウロ三木ら3名、他あわせて24人でした。この24人は、京都や大阪・堺の町を引き回された後、一ヶ月ほどかけて、裸足で歩いて長崎に送られました。この途中で2人が加わり26人(外国人6名・日本人子供3名、大人17名)となりました。このうち、長崎と関わりのあった者は2名と言われています。

1597年2月5日に長崎の西坂の地にてはりつけの刑に処せられました。その日、西坂の処刑場のまわりには、大勢のキリシタンが励ましに来ていたと言われ、ポルトガル船は祝砲を撃っています。

西坂でのこの処刑はみせしめのためであって、この日から迫害が厳しくなったわけではありません。本格的なキリシタンの取り締まりが行われるのは、徳川幕府の時代になってからです。では、何故処刑地は「長崎」だったのでしょうか?

それは、禁教令にもかかわらず、長崎はキリシタンの町として栄えていたからです。ポルトガル貿易の為、秀吉は長崎に宣教師の居住を認め、住民の信仰の自由を黙認していました。だから、その場所を処刑地に決めたのは、長崎に住む人々への警告のためであったと考えられています。(参考文献:旅する長崎学3)

※ 26人がどんな人物だったのか詳しく知りたい方は「旅する長崎学3」をご覧下さい。

信徒発見

信徒発見とは、1865年3月17日の正午過ぎに、大浦天主堂を訪れた一団が自分たちはキリシタンであると信仰を告白した出来事で、日本の、そして世界のキリスト教の歴史においても奇跡と称されています。その次第は以下の通りです。

日本は当時まだ禁教令下にありましましたが、フランス人のために1864年大浦天主堂が完成しました。翌年1865年2月19日、ジラール教区長により天主堂は「日本二十六聖人殉教者聖堂」と命名、献堂されました。それから約1ヶ月後の3月17日、当時「フランス寺」と呼ばれていた天主堂には、珍しい西洋風の建物を一目見ようと、大勢の見物人が来ていました。その客にまぎれて、浦上の潜伏キリシタンたちもやって来ていました。そして、聖堂内で祈るプティジャン神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」、つまり、「私たちもあなたと同じ信仰をもっています」、とささやいて信仰の告白をした後、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねました。プティジャン神父は、日本のキリシタンの子孫を目の前にし、この慰みを神に感謝し、彼らをマリア像の前に導きました。こうして、プティジャン神父は浦上の「信徒を発見」することになったのです。その後、五島、外海、神の島など長崎県の各地から、また、遠くは福岡県の今村からまでも、噂を聞きつけたキリシタンたちが名乗りをあげにやってきたと言われています。

豊臣秀吉とそれに続く徳川幕府のキリスト教禁教令、そしてついには1639年の鎖国令により、宣教師たちは既に追放されていました。幕府のキリシタンに対する迫害や拷問は続き、残酷さが増すばかりの中で、宣教師たちは来日することができなくなっていました。その間、実に7世代、250年もの長い間、表面は仏教徒を装いながら、しかし内にはキリストへの熱い信仰心をもって、代々伝え聞いた信仰を守り通してきた、潜伏キリシタンと呼ばれる信徒たちがいたことが明らかになったのです。

この潜伏キリシタンとプティジャン神父との出会いの要となったのが、小さなマリア像です。世界宗教史上、類まれなこの出来事が、その小さなマリア像の前で起こったのです。まさに奇跡とも言えるこの感動的な出会いが、マリア様を通して行われたのでした。そのため、この時の聖母子像が、『信徒発見のマリア像』と呼ばれるようになったのです。プティジャン神父から見た「信徒の発見」は、裏を返して、浦上の信徒から見ると、「神父そしてマリア様を発見」したとも言えます。